一生涯は、つまるところ先代から受け継いだバトンを後世に渡すために

最近書きたいと思っていた2つのことをまとめてつらつらかくと、こんな感じか。

最近は去年とは心をいれかえてまっとうな気持ちで就職活動をしていることもあって、ぜひ見てみたかったNHKドラマの監査法人

監査法人 DVD-BOX

監査法人 DVD-BOX


はっきりいって、しびれた。監査法人に関する知識は少ししかないので、実際の業務に対する忠実性等を述べるつもりはないけれど、
ひとつのドラマとしての完成度が高く、吸い込まれてあっという間にみてしまった。さすがNHK。役者の演技力の高さといい、脚本の展開といい(少なくとも第1話〜第3話までは)、村松崇継さんのBGMといい、
これがプロの作品か、と思わせる仕上がり具合で、もろもろの事情があってちょっと言いにくいけど笑、ぶっちゃけ「ハゲタカ」より面白かった。



留学してたときに感じていたこととつながったからかもしれない。
粉飾決算を容認する馴れ合い監査か、市場の健全性によって会社を育てる理念のはずが実際は単に会社をつぶしてしまうことになる厳格監査か、どちらが適しているというテーマだったけれども、自分が興味があったのは、なぜこれまでの日本にまかり通っていた馴れ合い監査から厳格監査に方向転換しなければならなかったという点だ。



松下奈緒の美しさを除いて笑、印象に残っているシーンをあげるならば、
厳格監査の理念を信じる塚本高史が演じる主人公がその狭間で葛藤しているときに、
馴れ合い監査を実践しつづけた結果、下剋上にあい、ムショにとどまることになった、橋爪功演じるジャパン監査法人元代表に会いにいったシーンだ。




「あなたは、いったいなにと闘っているんですか。」




「しいていうならば、時代かな。」




まさしく、これこそが原因だとおもった。
極端にいえば、厳格監査がすばらしいのではなく、実践しなければ生き残れない時代だったからなのだろう。



世の中は知らないほうが幸せに暮らせる真実で埋め尽くされていて、その部分部分に気づいてしまったひとが、
それと対峙していくことが時代の進化であろうというのが持論だけれども、
果たして自分は、いまの時代の「なに」と対峙していくべきなのだろうか。






閑話休題




最近読みたい本がたまりすぎていて、なかなか消化できていないが、やっと読み終えた本がこれ。

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

モーセ一神教」。
フロイトの第三論文に関する書籍だけれども、ぼくが感銘を受けたのは論文の中身というより、フロイトの論文執筆の動機と訳者の渡辺さんの研究に対する誠実なおもいにだ。

まず内容を述べておくと、ユダヤ教の原点である、エジプト脱出を率いたモーセが、実はユダヤ人ではなく、エジプト人ではないか、というこれまでの宗教の常識を覆そうというスケールの大きすぎるものとなっている。


これまでの多神教のエジプトの宗教が招いた腐敗に対抗すべく、一神教であるアートン教を人民に崇拝させようとした、イクナートン。
高校の世界史の授業では、単純にこのファラオの時代に首都が、テーベから、テル・エル・アマルナにうつっただけだよな、くらいにしか記憶していなかったが、

このファラオの宗教感に陶酔していた、その土地の総督のような地位にいたひとがモーセであり、ファラオの死により再び動乱期となった時期に、
ユダヤ人が、エジプト人でこの宗教を生き永らえさせたいと願うモーセによって「選ばれ」たのだという説だ。

発祥の地では、勢いを失って途絶え、末流としてほかの地に持ち込んだものが、結果的に栄えるというのは、鑑真の南山律宗みたいだけれども、時代なんてそういうもんだろう、と納得させられてしまう。





第一のフロイトの論文執筆の動機について。
フロイト自身の論文は、精神分析のES論者として論じているフロイトと、ドイツから迫害を受けることとなってしまったユダヤの原点である「選民思想」の由来を突き止めたいというひとりのユダヤ人であるフロイトが互いに見え隠れしているような気がして、自身も述べているように、大変わかりにくい。というか、自分の浅い博識を戒めて、数年後、再読せねばなるまい。


ただし、フロイトが、自分の身の危険がありうるなかで、それでも抑えきれず、論文を作成する姿勢に敬意を表せずにはいられない。



【以下引用】

この三番目の論文は、いつの日にか危険を感じることなく公表できる時代がくるまで、あるいは、いつの日にか同じ結論と同じ見解を公言する人が、かつて暗い時代にも君と同じように考えた人物がいたのだよ、と言い聞かされる時代がくるまで、秘密のうちに保管されることになるだろう。

【引用終了】



ただの自分への慰めといってしまえばそれまでなのかもしれない。しかし、後世のひとに希望を託す思いでその時代を精一杯生きたひとりの人間を尊敬せずにはいられない。
自分にも後世のひとに「あとはたのむ」と託せるような思いで人生をまっとうすることができるだろうか。


訳者の渡辺さんの研究に対する誠実なおもいについて。
宗教のためにどれほどの血が流され、どれほどの歴史を担ってきたか、それを考えれば、簡単に実は根底から間違っていましたなんて軽はずみにはいえない。
先人への敬意が、自説を紹介する前に、詳細に断わりをいれている姿勢にあらわれていて、研究者の研究に対する敬意に、重みを感じたのである。
同時に、キリスト教が生まれ、栄える地域から、物理的にも文化的にも一定の距離がある日本人だからこそ、得られる客観的視点を生かしているところに
世界に呼び掛けをおこなっていきたいひとりの日本人として、学ぶべきところがあるのではないか、と感じた。



長くなってしまったけれど、今日は、「白魚のホイル焼き」をつくってみて確実につくる料理のレベルがあがってきたことに自己満足していて、上機嫌だったから、という理由で許してください笑